電波少年 よもやま話 byサンダルツアーズ
 

『電波少年』 よもやま話 


11月16日に日本テレビ『衝撃のアノ人に会ってみた』の番組の1コーナーで、当サンダルツアーズ代表の石子にスポットを当てていただきました。
10分ほどのVTRの中では、かつて出演していた電波少年「アンコールワットへの道の舗装」のアレコレや、サンダルでの活動なども紹介していただきました。
放送後、カンボジアや戦争孤児だったサンに関して様々なご質問やご意見を頂きましたので、ここでいくつかご紹介出来たらと思います。




■戦争孤児サンについて■

 

「衝撃のアノ人に会ってみた」という番組では、16年前に放送していた電波少年の「アンコールワットへの道の舗装」というコーナーで、私たち約10名のメンバーと一緒に生活をしていた戦争孤児のサンに会いに行くという企画がありました。

私は当時大学を休学して参加していた23歳。サンはお寺に預けられていた戦争孤児で15歳でした。
15歳というと男子は声変わりや急に身長が伸びたりといった頃ですが、当時のサンは小学生くらいにしか見えない幼い容姿でした。 <右上の写真>
おそらくは栄養状態の悪い幼少期を過ごしていたからではと思います。

(カンボジアは東西冷戦の傘のもと、ベトナムの戦火が飛び火したりなど1970年代から動乱期がはじまり、不安定な情勢が長らく続きました。)

電波少年「アンコールワットへの道の舗装」では、全9か月におよんだカンボジア舗装生活の中で、後半の4か月間をサンと一緒に過ごしました。
チョンティン村というところで舗装作業をしていた時に仲良くなった子供の一人で、その村のお寺に彼は身を寄せていました。
次のテント地に引っ越した後も舗装を手伝いに来てくれ、「アンコールワットまで一緒に行きたい」という彼の希望のもと、私たちと生活を共にするようになりました。

2001年の夏にこの企画が始まり、喧嘩や笑いやすったもんだが沢山あった日々でしたが、翌2002年の三月末に無事アンコールワットにゴールして企画が終了。
その後はサンが生活をしていたチョンティン寺で涙涙の別れをして私たちメンバーは日本に帰国となりました。

実は電波少年が終了した3年後に、私はサンを訪ねてチョンティン寺に行き、日本からの不要文具を届けたことがありました。

その頃サンは出家してお坊さんになっていました。
一緒に生活していた時は「髪を切りたくないからお坊さんにならない」と思春期丸だしなことを言っていましたが、「子供」から「青年」と呼ばれる年齢に達し、いつまでもただの居候ではお寺に居ずらいというのもあっての出家だったと思います。

この時はサンを介して村の小学校に不要文具を届けました。これが初期の活動として不要文具や古着の回収&配布がはじまり、その後スタディーツアーの開催や、昔話の発掘伝搬活動など現在の活動へと繋がっています。

さらにこの数年後にお寺に訪ねたときサンはもう還俗してお寺にはおらず、「タイに出稼ぎに行ったらしい」という噂を聞きその後は行方知れずとなっていました。

そして今回番組の方でサンを探して頂き、12年ぶりに再会することができたというわけです。

ちょっとした裏話になりますが、今回の再会で一番驚いたのは、私とサンが“タイ語”で会話ができるようになっていたことです。
ちなみに電波少年時のサンとのコミュニケーションは、「行く」や「食べる」といった簡単な単語を使った実にシンプルなものでした。

サンは僧侶として6年間を過ごし、還俗してからは数回タイに出稼ぎに行きバンコクの建設現場で働いていたそうです。
(日本のバブル期がそうであったように、タイの経済成長もカンボジアやミャンマーなど周辺国の出稼ぎ労働者が下支えしています。)

実は私も5年ほどタイで生活していたことがあり、今回の再会ではサンの大人になった容姿以上に、すらすらとタイ語で意思疎通ができることが一番の衝撃でした。あんなことやこんなことなど色々な話ができました。

現在はお寺から10キロほど行った所にあるロバーク村という村に住んでいます。
電線が一本やっと通っているようなのどかな村で稲作を生業として、結婚して3姉妹のお父さんになっていました。

今後、サンダルツアーズの活動でも、サンやロバーク村とも関われたらと思っています。




 

■電波少年のカンボジアでの企画とはどの様なものだったのか?■

 

「電波少年」がしばらく日本に帰って来なくても平気な20歳以上の男性を募集したことがありました。
この年(2001年)の成人式に新成人が日本の各地で大暴れし、社会問題になったことに番組が目をつけ、「そのエネルギーを電波少年にぶつけてみませんか!?」と20歳限定の募集が始まり、その後20歳以上の男性と枠が拡大し募集がされました。

私は当時大学4年生。運良くオーディションに受かり、学校やバイト先など日本の生活をOFFにして、番組が指定した日時に日本テレビに集合。
その後アイマスクとヘッドフォンで拉致され、2泊3日くらいかけてカンボジアとタイの国境に連れてこられました。ちなみにヘッドフォンからはノンストップでユーロビートが延々と流れていました。タイタニックのユーロビートバージョンは今でも耳にこびりついています。
細かい話ははしょりますが、そんなこんなで“内戦で荒廃したカンボジアのデコボコ道を舗装する”という企画がスタートしました。

ひきこもりからヤンキーまでバラエティーに富んだメンバー(約10名ほど)がすったもんだをくり返しながら、アンコールワットまでの道の未舗装区間89キロを舗装するというものです。

日曜の夜のバラエティーを成立させながらカンボジアのインフラを整備する。。。
国際貢献活動のドキュメンタリーをお笑いの番組にしてしまうという当時としては画期的?な企画だったかと思います。

ちなみに1キロ舗装完了ごとに1万円分の現地通貨が供給されるというルール。
大穴だらけの区間では1キロに1か月くらいかかることもあり、気付けばお金は底を付き、残り少なくなった米をおかゆにして飢えをしのいだ、、なんてことを経験しながら9カ月をかけてアンコールワットにゴールしました。

 


↓タイとの国境:オスマックという町から国道6号線にぶつかるクラランという町までの未舗装区間89kmの道の整備でした。


 

■地雷原での・・・■

 

番組は地雷原からスタートしました。
スタートから2〜3か月間くらい滞在したエリアが特にヒドく、地雷が沢山埋まっているため行動範囲がかなり限定されて生活していました。

舗装している道の上は安全。地元の人が暮している民家周辺も安全。あとは地雷が埋まっているから気を付けてよ、と言う状況です。

まぁテレビ番組だからそこら辺の安全は担保されているだろうと思っていましたが、企画が始まる前に“念書”にサインを書かされました。
“何かあった際に番組側はベストを尽くすけどその後は訴えないでネ”と言った趣旨のものだったと記憶しています。 

事が起こってしまった後の最善のサポートはあったにせよ、道は相当の悪路で病院まで行くのに何時間もかかるような僻地…
地雷以外にも毒蛇やマラリア蚊もいたりで、今思い返しても無事企画を終えることが出来て本当良かったと思います。

基本的に生活していた所は草木が生い茂る大自然で、そこにデコボコの道が一本だけ通っています。
ただでさえ劣悪な状況下に加え、デンジャーゾーンであることを告げるドクロの看板や赤いしるしの数々、、

やはりトイレに一番苦労したことが思い出されます。 

地雷を踏んで死にたくはない。
けれど人前で用を足せるほどの人間的キャパシティーは当時持ち合わせていません(今も)

もよおす便意の中、一歩一歩、薄氷を踏むような思いで茂みの中へ・・・

“デッド オア アライブ”

茂みに隠れるくらい奥に行ってしまうと地雷の餌食になってしまうので、地雷最前線とおぼしきエリアまで歩を進め、氷上でのわかさぎ釣りよろしく穴を掘ります。
他のメンバーもそれぞれの最前線まで茂みへ分け入り、日々の生命活動をしていました。

・・・便所紙とスコップを片手に、蒸し暑いジャングルでひやり冷や汗・・・そんな経験はもう二度と経験したくないものです。

先月の番組でも話していましたが、私たちが道の舗装をするかたわらで「HALO TRUST」という地雷撤去をするNGO団体の方たちが防護服をまとって作業をしていました。
私たちは日没まで作業するのですが、ハロトラストの方たちは暑さのピークに達する午後3時ころにその日に見つかった地雷を起爆処理して帰って行きます。

ドーン、ドーン、ドーン、、とその日の彼らの成果があたりに響きわたり「あ〜もう3時か」となります。

その多くが“対人”地雷で、それもかなりの爆発音なのですが、まれに“対戦車”地雷のような大きな爆弾の起爆があり、 「ズド-----ン」と、地中深くまで轟くような爆発音。
重たく心臓をなぐられるような衝撃は今でも鮮明に覚えています。

カンボジアの戦後復興は、他のそれと比べてなかなかスムーズではありませんでした。
カンボジア国内に無数に埋められた地雷が足かせとなり、それがゆえに「道」というインフラ整備も遅れ、そして私たちの電波少年の道の舗装の企画となったワケだったのです。

 




■おわりに■

ここまでお読みいただきありがとうございます。
カンボジアには当サンダルツアーズ以外にも多くの日系支援団体が活動し、老舗の団体から学生団体など若い方たちが多く活躍されています。
彼らに電波少年時代のカンボジアの様子を語るとき、ついつい「昔はさ〜、昔はね〜」という言葉を連呼してしまい、年々拡大する学生との年齢の開きにギョっとさせられることもしばしば・・ 今回のサンとの再会や、久々に訪れたかつての活動地域の変貌ぶりに、あらためて16年という時間の経過を改めて噛みしめていました。

アンコールワットのあるシェムリアップの街には年に2,3度訪れていますが、思い返せば信号機が一つ設置されたばかりの閑散とした田舎町、というのがシェムリアップの最初の印象でした。

それが毎年訪れるたびに色々なものが新しくなり、ラーメンの値段が2倍になり、今では車の渋滞、エスカレーター付きのデパート、高級ホテル、スパやエステ、大量の団体旅行客など・・街がすっかり一変してしまいました。

さらにプノンペンに目をやると、AEONモールの巨城が燦然と輝き、東横INN、スターバックス、吉野家など日本でもおなじみの企業も進出。
高層マンションなど不動産投資も盛況で建設中の高層の建物がいくつも見受けられます。

「地雷」「スラム」「貧困」と言ったいわゆる“不幸が売りモノ”になっていると揶揄されてきたカンボジアですが、これまで私たちが持ってきたこの国のイメージを大きくアップデートし、より“ナウ”なものも発信していかなければならないなと思わされます。

しかしながら、タイ、ベトナムなど周辺国に比べまだまだ社会問題等が山積していることは事実で、労働問題や環境問題など国の発展とともに噴出してくる新しい問題も近年耳にします。

ボランティアだ、教育支援だ、とこちらの価値観でこれらの問題に首を突っ込むのではなく、彼らの自発的なニーズを元にサポートを考え、さらには携わった活動が我々にとっての学びの機会にもなりうる・・そういったスタンスで今後もカボジアと関わって行けたらと思います。

(2017/12/17記)

 

↓約16年でこの変化。<シェムリアップの国道6号線にて>






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